家族信託を始めて、そろそろ半年です

 

新宿中央公園1

先日、11月9日、私は「家族信託」の利用者としてインタビューを受けました。その記事は[株]日本財託のホームページの中で現在掲載されており、ここをタップ(クリック)するとご覧いただけます。今回は、そのインタビューを受けるに当たって補足資料として纏めたものを紹介したいと思います。これは編集者にあてたコメント・メッセージから始まります。

 

当初、家族信託の経験を振り返って、その利用に至った経緯から書いていると長々しいものになりました。こんなものが本当に必要なのか。Q&A形式でコンパクトに纏めた方がいいのではないかと思い、それを最初に持ってきました。これらはインタビューの中で私の説明不足から事実とは異なる記事になってはいけないと思いますので、インタビューの補足資料として利用いただければと思います。インタビューでは話し言葉のため、読者にとって読みやすい書き言葉や表現に編集していただいても結構です。わざわざインタビューの時間を割かれて、大変な編集作業に取り組まれる以上は何らかの記事になってくれればそれでいいと思っています。大変にお手数をお掛けすることになると思いますがよろしくお願いします。

 

Q1:家族信託(の存在)をどのように知ったのですか。きっかけは?

・東京中古ワンルームマンションの購入先として日本財託を考えてはじめて参加したセミナーのテーマの1つが家族信託でした。

 

Q2:家族信託を利用することを決めた理由 目的は?

・母の介護費用等を払うためには預貯金を切り崩していくよりは長期的に安定的に家賃収入が入る東京中古ワンルームマンションを購入した方が良く、家族信託を利用することで、その購入手続き全てを手足が不自由な母に代わって私1人で行うことができるので、その実現を早めることができる。

・その契約内容には複数の専門家の目が入り公正証書として残る(不正・疑念・曖昧さ等、将来の問題の種を排除できる)。

 

Q3:どのような家族信託をしたのですか?

・委託者が母親、受託者が私(長男)、受益者は母親で、母親の現金7500万円限定の信託です(年金が入る通帳は信託の対象外になっています。また、母親は自宅での家族葬を希望しているため自宅はそのままになっています)。

・家族信託の目的は「第1条 本信託は、委託者が、自己の意思能力が低下、喪失した後においても、家族、親戚等に迷惑をかけることなく、健康的で安定した生活を送りつつ、保有資産が有効に活用されて欲しいという願いから、第5条記載のとおり自己を受益者と定め、第3条記載の財産(以下「信託財産」という。)を対象として、受託者が受益者のために、保全、管理、運用及び処分その他必要な行為を行い、受益者に不動産購入等に伴う煩雑な手続き及び判断を免れさせつつ、受益者の生涯にわたる生活の支援と福祉を確保するため、信託財産の運用等によって得られた利益が、受益者に対する必要な財産の給付等として行われることを目的として信託し、受託者はこれを引き受けるものとする。」となっています。

 

Q4:実際に家族信託を利用して気づいたことは?

・1つの信託口座の通帳の中で家賃収入や自動引き落とし等が記載されているので運用状況を把握し易い。

・信託の目的が明確な文章で表現されているので信託の目的を再確認して共有できる。

・家族信託の(制度の)利用者としてインタビューを受けることを承諾したが、私のケースは家族信託を普及させていく上で皆様に歓迎していただけるものだろうかと思うようになりました。いま、私の家族は母と私の2人になってしまいました。母が長年かけて貯めてきたお金を母が有料老人ホームで暮らせる費用を生み出すものに変えるためにただ家族信託を利用している。もっと違った家族や親子の本来の在り方があるのではないか。そう言われそうな気がしています。しかし、中には私の家族のように、外からは簡単そうで何も問題がないように見えながらも長年に渡って大きな課題(影の部分)を抱えていて、いまもそれと戦っておられる方もいる。もしかすると、家族信託が普及している欧米とは違って、いまの日本では私と同じような課題や問題を抱えている人が結構多いのではないかと思います。家族は個々違うので、家族信託の利用の仕方もそれぞれだと思います。その実態(現実)を1つひとつ直視していく中で、家族信託がそれぞれの家族に合った、将来の在り方を描く上で欠かすことのできない道具の1つになっていくと思います。

・今回の家族信託には不可欠な東京中古ワンルームマンションの購入と管理を日本財託にお願いできたことは幸運なことだったと思います。また、家族信託コーディネートは無料で、しかも、加古川の公証役場まで来てくださったことには驚きました。東京中古ワンルームマンションの管理が中心で、その軸はぶれないでしっかりと経営されている証なのでしょう。

 

家族信託利用の経緯

元々は両親と私と弟の4人家族でした。

父親:大正15年3月6日生。

母親:昭和4年5月28日生。

長男:昭和29年5月11日生。

次男:昭和31年9月1日生。

長年、両親は加古川、私は東京・立川、弟は寮がある日立と自宅がある横須賀での暮らしが続いていました。

弟は2012年8月15日、実家に帰省する途中にあるサービスエリアに止めた車中で食道の動脈瘤破裂(キラーストレス?)が原因で亡くなりました(享年55歳)。

父はそれ以前から脳梗塞で右半身と発語の障害が進行していたのでデイサービスも受けていましたが、胆石が悪化したことでバイパス手術を受けました。その1年半後(2014.1.9.)に亡くなりました(享年87歳)。

父の介護に従事した母は昨年、要支援2の判定を受け、現在は要支援2に移行しました。母(87歳)は今年の9月3日、長年暮らしてきた自宅を離れて加古川駅前に9月1日にオープンした有料老人ホームに移りました。

弟の相続は母が会社の人の説明を受けて対応しました(私は母に[株]夢相続に相談の電話を入れるように勧めましたが実行されませんでした。通帳や家の名義替えがされていないことは父の相続のとき分かりました)。父の相続では母は当初(相続放棄が可能な期間)、相続の話は出すことなく父名義の通帳を母名義に変えようと画策したようでしたが私はそれに応じませんでした。その後、母は「お父さんには財産はない」と言いながらも「その全てを相続する」と主張しましたが、私は同意することなく、法定相続分と申告の必要性を主張しました。母は「皆(近所の知人?)、申告していない」といいましたが、私は「それぞれの家族で状況は違う。基礎控除が超えるのか、超えないのかも明らかでない。特例が使えないままに調査を受けて多額の相続税を払うことになると『知らなかった』では通用しない。社会的な信用を失うし汚名になる」と話すと、母は「自宅で暮らして、月々貰えるお金の他に、病気等で必要となる大きなお金があればいい」と言い、父と弟名義の通帳を出してきたので、私はそれを見ながら財産目録を作りました(このとき弟名義の通帳から父名義の通帳に大きなお金が移動していることに気づきました)。父と弟の不動産評価はできないままでした。

申告期限まで3ヵ月を切った時点で私(9月16日と24日)と母(9月24日)で父や弟名義の財産目録や不動産の権利書等を持って夢相続を訪問し、相続のコーディネートを依頼して申告期限内に申告を終えました。私は父名義の預貯金当5000万円弱を相続しました。後日、夢相続から提案があり、その仲介で父から相続したお金で東京中古ワンルームマンションを1戸買いました。そのときの売主が日本財託でその賃貸管理も日本財託に依頼することになりました。母は母名義の預貯金等の開示はないままに夢相続が勧める非課税枠の生命保険に入りました。母は次男の自宅を相続し、その売却を夢相続に依頼して最終的には自ら決めたにも拘らず、その安値に不満を漏らしました。

その後も母は自宅で一人暮らしを続けていましたが車の運転を止めてからは手足が徐々に不自由になりました。要支援2の判定を受けて買物や家事(掃除)にヘルパーが来てくれたり、デイサービス(入浴サービス)を受けるようになりました。母は「いまの遺族・国民・郵政年金で十分足りる」と答えましたが、いまの自宅での1人暮らしがいつまで続けられるのか、仮に有料老人ホームに入居するとどの位の費用が掛かるのか、そういった不安がありました。また、相続税の基礎控除が下がったことで、現金を持ったままで何もしないときの相続税額も気になりました。

母が開示した概算だけで計算すると相続税は1000万円強かかることが分かり、それを母に伝えると、母は「その額には納得できない」という様子でした。私は対策として「現金で東京中古ワンルームマンションを買うと、相続税額が少なくなるし、月々の家賃収入が入る」と私自身の体験(逸話)を加えて母に話すと、母はその購入の意向を固め、夢相続にその意向を伝えてました。その後の半年間は物件の紹介がないまま時が流れ、その現状を母に伝えて、購入先に日本財託を加えることを提案すると母は同意しました。

今年の4月13日に日本財託主催のセミナーに参加して偶然、家族信託コーディネーターから家族信託の話を聞ました。そのとき申し込んだ個別相談では「家族信託の制度を用いることで手足の不自由な母に代わって私1人で物件の購入と管理に関する手続き全てができる」と確信しました。母にそれを話し、家族信託の契約をする方向で進める同意を確認して家族信託の契約書の内容(現金7500万円の信託)も確認した後、5月30日、私と母は司法書士と家族信託コーディネーターの同伴で加古川の公証役場に行き、そこで信託契約書を完成させて認証を受けました。

私と母で母名義の定期預金と一部の保険を解約して普通預金に入れた後、私は信託契約書を持って、家族信託コーディネーターから紹介いただいた金融機関の支店に出向いて信託口座を作り、そこに母が7500万円を送金しました。その入金を確認してから東京中古ワンルームマンションを3戸購入する意向を伝えました。日本財託の以前にもお世話になった担当者から家族信託の件で全部で12戸の物件を紹介いただきました。その内の6戸にオファーを出した結果、予定していた3戸を(抽選等を経て)購入することができました。

どれも手取り家賃収入が当面7万円を超えているので月々21万円以上は確保できるので、母が既に得ている年金の手取り20万円を合わせると月々40万円以上の収入があることになります。東京郊外(羽村)の有料老人ホームが頭金無しの場合が月30万円と聞いたこともあり、有料老人ホームの費用に関しては問題ないだろうと思いました。3戸の物件を購入した後に900万円残っていたので取得税等を払っても、緊急の費用にも耐えられると思いました。父のケアーマネージャだった人が母の担当になったことで、将来、母が入れる老人ホームを紹介して貰うためにも、月々の母の収入の概要と家族信託利用の意向を伝えたとき、経済的には「有料老人ホームの入居も可能」との判断を得ていました。

叔父の通夜(8月6日)と葬儀(7日)への出席、3戸目の契約(8日)、予定のカウンセリングの仕事等を終えて、8月12日から約3週間、母のホーム入居の準備のために帰省しました。その前に母のケアーマネージャとのメールのやりとりで母の状態の悪さ(失禁)の報告を受ける他、熱中症予防のためのショートステイや加古川駅前にできる有料老人ホームの入居の検討の勧めがあり、12日にはホームを見学して、そこでの写真を撮って、ショートステイから帰ってきた母に見せて、母に入居の意向をケアーマネージャと確認した後、母同伴でホームを見学し、入居の契約日を8月27日に設定して、契約書と入居に必要なものの準備を進め、契約後は入居一時金等(200万円)の支払いとあいさつ文の作成のために一時上京し、その配布等を終えて9月3日に母はホームに移りました。

月々の支払いが当面20万円弱なので家族信託で作った仕組み(3つの物件)は早々にフル回転で機能してくれています。現在、母がホームに入居して2ヵ月が過ぎました。その間、母は1人でトイレに行こうとして尻もちをついたままの状態でスタッフに発見されることが何度かありました。そこには2時間おきの見守りがあるお陰です。「今回、家族信託の制度を利用することで母を見守りがある環境に置くことにギリギリ間に合った」と実感しています。その実現に多くの方が関わってくださいました。その方々と、その人を支えてくださる存在に感謝したいと思います。ありがとうございました。

新宿中央公園2

インタビュー後に立ち寄った新宿中央公園

新宿中央公園3

木枯らしが吹いている。少し唇も寒い。

 

■ 立川のカウンセリング・ブライト

 

 

 

家族信託を私が選択した理由

私が購入した賃貸マンション

2年前に父親が亡くなり、家族は私と母親の2人になりました。私は相続したお金の一部で(株)日本財託から賃貸用の区分マンションを1戸買いました。その後、「元気なうちは自宅で暮らしたい」と言う母親は徐々に歩行が困難になってきたり、筆圧が低下したり、頻繁に横になるなど、身体的な変化を帰省の度に目の当たりにして、この先どうなるのかという不安がありました。母親は当初「(父親の)財産を全て(母親が)相続し、(母親が)亡くなったとき(長男の私に)譲る」と言い、母親名義の預貯金額の開示はないままに平成27年の相続税の基礎控除の引き下げを迎え、将来の相続税額についても気になっていました。

私は、節約してコツコツと貯めてきた母親に、自分が買ったマンションの写真を見せて月々に家賃が振り込まれている事実を話す他、「相続税の基礎控除が3600万円に下がったので自宅1600万円の他に現預金が2000万円以上あると、その分に課税されることになるのに、いまは相続税がいくらになるかも分からない」と話すと、母親は母親名義の預貯金と生命保険の金額を開示したので、私は予想される相続税額1000万円強を算出して母親に示しました。母親は「そんなに(現金が)あるとは思わなかった」と言う他、そんなに相続税として持って行かれることには納得できない様子でした。私は母親に「いまの生活は国民・遺族・郵政年金で十分に足りている」ことは確認しましたが、今後、要支援、要介護、老人ホーム入所等で、支出増に備える必要があると強く感じました。

私は母親に「今後、増えるかもしれない支出に備えて、月々家賃収入が確実に入る都心の区分マンションを購入すると、同時に相続税の節税対策にもなる」と話し、母親はその購入を決意してオファーを出しましたが物件の紹介がないまま半年の月日が流れていたため、私は購入先に日本財託を加えることを提案し母親も同意しました。母親は要支援2の判定を受け、週2回のデイケア(入用サービス等)と家事(掃除)のヘルパーのサービスを受けるようになり、一人では転倒する危険があり、付き添い無しでは遠出は困難な状況になりました。物件の購入にあたっても、その手続き一つひとつに母親が関わることは困難で、遠方(東京)に住む私が母親に代わって、どう購入するかも大きな課題でした。

そんな中で日本財託のセミナー(4月23日)に参加して講師の横手さんから家族信託の話を聞きました。個別相談も受けて、私の課題の解決には家族信託が役立つことが分かりました。家族信託の契約(母親が委託者、私が受託者)をした後、私が直接、日本財託から物件を購入し、その管理もお願いする。その意向を固め、母親の同意の下、横手さんから紹介があった司法書士の坂野さんに家族信託の契約書の作成を依頼しました。5月30日に兵庫県加古川の公証役場で坂野さん・横手さんの同席の下で家族信託の契約をして、その認証を受けました。その直後に作った家族信託の口座には母親名義の大半のお金が振り込まれました。これからは家族信託の契約書にある家族信託の目的に沿って、受託者の私が、託された母親の財産を運用・管理することになります。具体的には、まず信託されたお金で3つの区分マンションを購入することです。その際、その購入と管理を、東京の中古ワンルームマンションの管理に特化して実績を上げてきた日本財託グループにお願いできることは大変に心強く、ありがたいことす。

公証役場前

公証役場前。向かって右から坂野さん、母親、横手さん。撮影は私。

(この記事は日本財託から依頼された原稿を一部修正したものです)

 

■ 立川のカウンセリング・ブライト

カウンセリングは心を映す鏡

「カウンセリング」にどのよなイメージがあるでしょうか。「鏡のように映し出し(共感し)ながら、その人に合った目的と方法を明らかにしていく過程」と私は考えています。自分自身について一つひとつ語ることで「私」というものが徐々に見えてきて、それを確認しながら「私」を発展させることができる従来のカウンセリングは大切な鏡の一つで、その価値は変わらないと思いますが、今回は心の傷(トラウマ)にも有効とされる、もう一つの鏡を紹介します。

ある男性Aさんが女性のカウンセラーから紹介されて私の相談室に来られました。Aさんは優秀で仕事もできる方ですが「最近、街中で女性が気になって本業に打ち込めなくなった」と言います。「自分は異常に性欲が強いのではないか」とも話されましたが、どうもそれが原因ではないということをこれまでの体験を通して薄々と感じておられる様子でした。

「きっかけは失恋」と言うので、私は「これだ」と思いました。当時(今から10年ほど前)私が比較的よく用いていたTFT(思考場療法)をAさんに説明して、TFTの4つのパターン(複雑なトラウマ、見捨てられ不安、予期不安、不安)のツボを自分で叩いてもらって面接が終わりました。そして、後日、Aさんから問題が解決したことを知らせる電話がありました。

このように、人が心のトラブルに遭遇するとき、その奥に心の動揺が層をなしていて、それを一つひとつ取り除くと問題が解決する、と思えることがしばしばあります。表面的には、短い時間、単にツボを刺激するように指示しているだけのように見えるかもしれませんが、相談者と同じ重荷を背負う程の深い共感がないと実際の変化は起きないようにも思います。

当初は日本版TFTかと思われたFAP(不安からの解放プログラム)は心の傷(トラウマ)の治療法として大嶋らによって開発され、その後、独自の進化を遂げています。その過程で、誰しも大なり小なり心の傷があり、それらが蓄積され、その後、深刻な問題(症状)に発展することが分かってきました。

そうならば、深刻な悩み事がなくても、常に自分を最善の状態にしておいた方がよいと考える方がおられてもよいと思います。 これから社会人という人、結婚式が近い人、人生の再スタートを切ろうとしている人、会社などで重責にある人が、まるで人間ドック、エステ、美容院に行くような感覚でやってくる。そんなことが近い将来に起こるような気がします。

人がもつ心の動揺(固着)には、不安、恐怖、強迫性、見捨てられ不安、心的外傷体験、パニック、予期不安、激怒、深い感情、身体的苦痛などがあり、それが人を不自由にします。しかし、それらの心の動揺(固着)は自分で指先のツボをあるパターンで刺激することで多くの場合取り除くことができます。FAPに興味・関心のある方は、大嶋らのホームページをご覧ください。

■ 立川の カウンセリング・ブライト

 

 

一言の心理療法で人は変わり始める

今回は米国の精神科医ミルトン・エリクソンの逸話(いつわ)を一つ紹介します。以下「私」とあるのはエリクソン自身です。

私が当時10歳のときは農場で生活していました。私が父親から用事を頼まれて近くの村に近づいたとき、同級生がやって来て「ジョウが戻ってくる」と言い、彼らが両親から聞いた話をしました。それは良い話ではありませんでした。

ジョウは全ての学校から追い出されていました。彼は猫や犬に灯油をかけて火をつけたり、父親の納屋と家を二度燃やそうとしたり、干し草用のフォークで豚や子牛や乳牛や馬を突き刺し、大変闘争的で攻撃的で破壊的でした。ジョウが12歳のとき、両親はジョウを扱いきれないことが分かり、裁判所に行き、教護院にジョウを預けることにしました。

それから3年後、仮釈放されましたが、家に帰る途中にいくつかの重罪を犯したために教護院に連れ戻されました。21歳で釈放されたとき、既に両親は死んでいて、10ドルと教護院の服と靴が全財産でした。

ジョウはすぐに強盗をして逮捕され、刑務所に送られました。そこで誰とでもよく喧嘩をし、テーブルなどを壊したために、独房で過ごしました。釈放され、別の町でも、押し込みなどの重罪を犯し、刑務所でも他の囚人を殴ったために地下牢に入れられました。光も音もない。公衆衛生の設備もないところです。ジョウはそこで2年間を過ごしました。釈放されても、さらに思い罪を犯して、また同じ地下牢で過ごしました。

刑期を終えて釈放されると、ジョウは両親が以前にいた村にやってきました。村には3つの店がありましたが、3日間に3つの店全てが押し入られ、川にあった1台のモーターボートがなくなりました。誰もがジョウのしわざだと分かりました。ジョウが出所して4日目に私が、その村に来たのです。私と友達は、ベンチに座ってじっと宙を見ている本物の罪人を近くで観察していましたが、ジョウはそれに注意を向けませんでした。

その村から少し離れたところに、農夫とその妻と娘が住んでいました。広い農地を持つお金持ちですが、雇い人が急に一人不足する事態になりました。娘エディは23歳で魅力的で素晴らしい教育を受けていると思われるものを持っていました。ひとりで豚を殺し、土地を耕し、干草を積み、とうもろこしを栽培し、雇い人がするどんな仕事もこなしました。上手に服を作ることも、料理を作ることもできました。その地域では最高の料理、最高のパイ、最高のケーキを作る娘として知られていました。

私がその村に行った日の朝、娘エディは、父親の用事のために馬車で出かけました。ジョーはその前に立ちふさがりました。そして、エディをくまなく見ると、エディもジョウをよく見ました。そして、ジョウは「あなたを金曜日の夜のダンスに連れて行ってもいいでしょうか」と聞きました。エディは「あなたが紳士ならいいですよ」と言いました。ジョウはわきへどいたので、エディは自分の用事をしに行きました。

金曜日の夜、エディはダンスをしにやって来ました。ジョウはエディを待っていました。そして、二人はその晩、全てのダンスを一緒に踊りました。

その翌朝、3つの店主は皆、盗まれた品物が戻っていることが分かりました。また、モーターボートも返されていました。そして、エディの父親の農場へ歩いて行くジョウが目撃されました。後でジョウがエディの父親に、雇って欲しいと言ったことが分かりました。

エディの父親は「雇い人は重労働をしなければならない。日の出に始まり、日が沈んでも働きます。日曜の朝は教会に行きますが、帰ってからは働きます。休日や仕事がない日はなく、給料も月に15ドルです。納屋にお前の部屋を用意します。食事は家族と一緒にできます」と言い、ジョウは仕事をもらいました。

ジョウは働いて働いて働きぬきました。一日の仕事を終えて、脚を折った隣人の手伝いに出かけました。ジョウはあまりしゃべりませんでしたが、親しみがあり、3カ月もたたないうちに村の人気者になりました。

一年後の土曜の夜、ジョウがエディ馬車に乗せて連れ出し、翌朝、ジョウがエディを教会に連れて行ったのが目撃されました。その数ヶ月後に二人は結婚しました。ジョウは納屋を出て母屋に移りました。二人には子どもがいませんでしたが、ジョウは村人から尊敬されるようになりました。

将来は農夫になると村人に思われていた私が「高校に行くつもりだ」と言うと、村人は「高校は人をだめにする」と考えていたので不愉快に思いましたが、ジョウは私の高校への進学、そして、大学への進学をも励ましたし、他の多くの人をも励ましました。だから、誰かが冗談で教育委員の候補者としてジョウの名前を挙げると、全ての人がジョウに投票したためにジョウは自動的に教育委員長になりました。教育委員会の最初の会合には全ての親が参加し、ジョウが言うことに耳を傾けました。

ジョウは言いました。「皆さんは最高得点でもって私を教育委員長に選びました。ところで、私は学校教育について何も知りません。皆さんが自分の子どもに成長して、立派になってほしいと思っていることは知っています。だが、そうなる最良の方法は、子どもたちを学校へやることです。最良の教師を雇い、学校のために最高の教材を買い、分担金についても不満を言わないことです」。ジョウは何度も教育委員に再選されました。

エディの両親も亡くなり、エディが農場を相続しました。ジョウは雇い人を探しに教護院に行き、見込みがありそうな人を連れてきました。自分で社会に出て、うまく更生する覚悟ができるまで、ある人は一日、ある人は一週間、ある人は一ヵ月、ある人はかなり長い期間、そこで働きました。

ジョウは70代で死に、エディもその数ヶ月後に死にました。その遺言には、農場は小規模農家に、他の土地は関心のある人なら誰に売ってもよいとありました。そして、売ったお金は全て、更正の見込みのある人を援助するために、銀行と教護院が管理する信託基金に入れられることになりました。

さて、ジョウが受けた心理療法は「あなたが紳士ならいいですよ」だけでした。私が精神科医として州の仕事についたとき、ジョウは私を祝って、私が読むべき古い記録が矯正施設や刑務所にあると言いました。私はその記録を読みました。ジョウは人生の29年間は問題を起こす人でした。それから、かわいい女性が「あなたが紳士なら、ダンスに行ってもいいですよ」と言いました。他にジョウを変えるものはありませんでした。それでジョウは変わりました。治療者が変えるのではなく、患者が変わるのです。(終わり)

今回、エリクソンの逸話の一つ(ジョウの話)を紹介するにあたり、随分と短くしました。関心を持たれた方は下記の原本を読まれることをお勧めします。

「ミルトン・エリクソンの心理療法セミナー」J.K.ゼイク編 星和書店

■ 立川のカウンセリング・ブライト